2019.11.10(日)16:00-18:00 開催終了
それから、写真家がやっぱり狂気の世界までは絶対いかないっていうのは、本能的に、こんなもので頂点まで、極致までいけるわけないって思ってるからなの。逆に絵描きとか文学やってる奴は、一気にわーっていっちゃうのがいるじゃない。燃え尽きちゃってもいいやってのがあるじゃない。でも、写真家は境界線だからね。こっち側とあっち側の、彼岸と此岸の。
写真家は川ですよ。三途の川かもしれないね。それがどれだけ幅の広い大きい川か、アマゾンみたいな大河か、作家によって違うんだよ。オレは隅田川。だから向こうまで、声が聞こえるの、オーイって。でも声が聞こえるぐらいのところにいたいね。オレはさみしがりだから。
引用:荒木経惟(1997).「天才になる!」 講談社現代新書 p.168
<写真家>は彼岸と此岸の境界線なのだな(と読んでいる)。
シャーマンな存在。
真実とか、確からしさとか、写実的とか、リアルとか、何千万画素とか、そういう技術の追求によって撮られるものとはちょっと違うね。
全然違うかな。
多分<写真家>とは、もっとも不確かなもの、すでに無いのに在るようなもの、ガラクタ、瓦礫、残骸、寓意、見えないもの、見えちゃいけないもの、何故か見えてしまうもの、見落とし続けるもの、永久に出会うことのできない愛の対象、幻想、まやかし、妖(あやかし)を写す(撮ってしまう)。イタコやユタの口寄せではなくて「写寄せ(しゃよせ)」。「それ」とか「もの(das Ding)」を、現象(象徴)させてくれるのだから、僕たちはただそれを前にし、立ち竦むしかないのだろう。